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使えそうな作文練習用ワークシートを発見した



以前「フィンランド式作文のフォーマットを入手したい」で書いたのですが、子供の勉強用に作文のフォーマットがほしいなと思っていました。偶然、Googleで英語版をホームページにして(自分の環境だとjaがデフォルトになっています)検索したら、ワークシートを見つけました。

worksheetplace.com for great educators --- Paragraph Writing

http://worksheetplace.com/index.php?function=DisplayCategory&showCategory=Y&links=3&id=166&link1=43&link2=154&link3=166

簡単なマインドマップをやらせてしまったので、やる側としては少し単調に(味気なく)思えてしまうのと、それが故に、学校などの強制力がないところで、毎日のようにこれを書かせようとすると大変な気がしますが、基礎的なところをやるには悪くないと思いました。


子供の通う学校では、漢字ドリルや計算ドリルは宿題でやるようになっているのですが、短文や箇条書きをさせるというのはないですね。強いて言えば、先生の指導が不要な見た瞬間に答えがわかるものが宿題になっているのでしょうか。


他にも、チェックリストやワークシートがあって、日本の国語教育と比べると興味深いものがあります。

worksheetplace.com for great educators --- Writing Worksheets

http://worksheetplace.com/index.php?function=DisplayCategory&showCategory=Y&links=2&id=154&link1=43&link2=154


これを見ると、インプットよりもアウトプットを意識した教育という感じがします。ただこれが「一般的なものなのか?」、「時代の要請に合わせて改良されたものなのか?」というのはわからないので、国レベルの教育の違いに踏み込んだ意見はできませんが、ビジネス書に書かれているような内容をワークシートに落とし込んで、子供のうちから(無意識にでも)訓練させようという意図が感じられます。



高校の教科書に英単語をルビのように併記しよう

外国人と仕事をするときに語彙の少なさを実感します。特に専門の技術の分野から離れてしまって、歯が立ちません。教養のない奴らだと思われているのでしょう。

日本人は英語をきちんと勉強しているので語彙は少なくないといわれることもありますが、どうもヨーロッパ系の言語を使ってきた人たちに比べてダントツに弱いようです。明らかに自分よりも学歴も低そうだし、勉強もしていなさそうな人が、政治や経済、歴史について難しい単語を知っている。ずっとなぜだろうかと考えていたのですが、言葉が違っても、難しい単語になればなるほど、同じ語源から来ているので、似たような単語になり、推測が可能だというのを読んで、我が意を得たりと思いました。

日本人が中国人と話をするときに、論語や老荘思想に関係することでも漢字で書いてもらえば内容は理解できるという理屈と同じですね。

例えばです、「三権分立」とか、「論語」、「行列」、「演繹法」、「石器時代」、「モーゼの十戒」、「大航海時代」、「列強」、「移動平均」、「協奏曲」など、思いつくままに出してみましたが、英語で言えといわれると困ってしまいます。なぜかというと、日本人はそれがすぐに出てくるような教育は受けていません。それを勉強するときに日本語でしか習っていないのだから、そもそも頭には入っていないのです。

ヨーロッパ系の言語を使ってきた人たちと話をするときは、学生時代に何となく似たような言葉が出てきて、それでテストを受けているわけなので、頭に入っているわけです。

世界はグローバル化が進み、特に先進的なものは、旧知を組み合わせてそれが英知に昇華されて生まれてくるようになっているので、日本語だけの知識では、外国の知識と結びつけることができません。世界は英語で動いていることを考えると、日本語だけでなく、英語をベースにしていかねばならないと思うのです。

学校を卒業してしまった大人はもう自分で勉強するしかありませんが、これから大人になる子供たちには、タイトルにも書いたように「高校の教科書に英単語をルビのように併記したもの」をプレゼントしたいと思っています。これはすべての教科を対象にします。

現場の先生方は、ほとんど英語に関わることなく仕事をしてきているはずで、(専門用語のようなものなので)発音がわからないとかとまどうところも少なくないと思いますが、子供たちに簡単に説明してやるとか、テストの一部に英単語の回答を求めるとかいうことで、意識づけをしてあげることで、子供たちの将来きっと役に立つと思います。

また教科書は、いまは学校を卒業してしまったら手に取ることはまずありませんが、社会に出て英語との関わりが出てきたときに、見てもらうという使い方ができると思います。教科書出版会社も、そういう形で大人にも販売し、知識を大人にも広げていくということが可能になると思います。



自殺より行方不明を選ぶ

JRの電車が停まり、どうもまた飛び込み自殺らしい。

日本の自殺の人数は先進国では高く、現在は年間3万人のペースということだ。考えてみればすごいことで、30万人というと青森市、那覇市、函館市の人口と同じである。毎年、それだけの数の人たちがいなくなる。異常な世界のように思う。(注1)

注1:ネットで調べてみると、あくまでも統計上の数値であり、検死の処理限界や恣意的に別の死因も紛れ込んでいるという見方もあるようです。

原因としてもっともいわれていることは、鬱などの精神性疾患が強調されています(注2)。不況が原因で、生きるのが苦しいため、解決には、まず話を聞いてあげるという心のケアが必要です。

注2:自殺の動機として筆頭は、実は「病気」という分析もあります。
東京都健康安全研究センター
http://www.tokyo-eiken.go.jp/SAGE/SAGE99/sage.html

日本の自殺に調べていると、さまざまな分析や考察があり、話がどんどん逸れていってしまうので、前置きとしてはここまでにします。


さて、自分が経済的な苦境に立たされて、自殺をも考えるような状況になったらどうするのだろう、書いてみたいと思います。

生きなくちゃ。家族に電車の下で肉塊に引きちぎられた姿を見せて、精神的に大きな傷を残すことよりも、例えば、行方不明の方が結果的に家族の負担は少ないのではないか。どこかで生きているという希望があれば、最初は捨てられたことを恨むことはあれ、時間とともに許せるようになるのではないか。そして生きていれば、また会えるようになるのではないか、という淡い期待が自分の中にあります。

もし、自分を捨てる(自殺する)勇気があれば、むしろこれまでの人生や家族を捨てて別の人生を選択するのがベターな選択なのではなからろうか。恐らく戦後までは当たり前だった、夜逃げをしよう。日本で貧困ビジネスなどの餌食になるのを避け、そして日本で生きる希望がないのだから、南米に渡って日系人の中に転がり込むのではなかろうか。例えば、ブラジルの日系人がやっている農場はどうだろうか。

最低でも食べていくことはできるだろう。

かなり昔になるが、ブラジルに行ったことがある。サンパウロの東洋人街に長居をした。日本から渡ってきて苦労された話も聞いた。彼らは日本の国策として棄民というのを知った上で渡って来た世代もいる。甘えなのかもしれないが、そういう苦労をした人たちだから、受け入れてくれるのではないかなと思う。(一方で、日系人が日本に出稼ぎに来たのを、私たちはどのような形で受け入れたか。もしかしたらしっぺ返しが起こるかもしれない)

もちろん、毎年3万人の人が押しかけて行っても、彼らの社会にそれだけのキャパシティはないと思うし、南米というところにどうしても馴染めない人もいると思う。

本当はそういった駆け込み寺が日本にあったらいいのですが、誰がどこにいるのかがきちんと把握されてしまうと逃げようがないのだから、そうであれば外国に駆け込み寺があってもいいと思う。例えば、ブラジルとか、パラグアイとか、そういう土地に行って日本からの追手から逃れ、生きて働く。そういう土地があると分かってしまったら、追手はまた追いかけてくるだろうか?


日本は、アフリカの最貧国に援助をしていながら、彼らは日本人の自殺の多さを知って、日本人に同情をしています。

環境を変えて、生きていけないものだろうか?

先進国におけるボランティア活動

いつのころからかわからないけれど、たくさんの日本人がボランティア活動というものに関わり始めるようになってきたと思います。

自分もいくつか関わったのですが、このところ何か違和感を感じています。

その違和感が何なのかというのをずっと考えてきたのですが、ひとつ思い当たったことがありました。ボランティアというのは、「自分ができること」というのがキーワードなのですが、実は日本のような先進国が抱えている課題に対応するには、「自分ができること」だけでは何かが不足しているのではないかということです。

協力者が必要なら人を集めなければならないし、相手があるので必ず誰かと調整するということも必要です。つまりコミュニケーション能力が必須になってきます。そしてお金の問題は必ずついて回ります。あと、技術は必須なのですね。活動を効果的に行うために素手で立ち向かうわけにはいかなくて、インターネットやPC、他にも活動を支える科学技術が使えるということは大事なのだと感じています。

バイクで災害があった場所を支援するボランティアがありますが、それについても、バイクという科学技術を使って、更に悪路をバイクで走る技術が要求されます。単に原付で街を走れるだけでは災害時に有効な活動はできません。

かつては、例えば災害のあった街の復興には身体ひとつで肉体労働をすればよかったかもしれませんが、現代では活動を組織的に動かして十分な効果を出すということが求められています。そうでなければ、別のボランティア活動に取って代わられてしまいます。結果を欲している人たちにとって、その時点で有効なものを提供できなければ、場合によっては「ボランティア」でさえも、邪魔者扱いされてしまい、「失業」してしまいます。まるで仕事のようです。

「(必要な)能力を持たない者は、ボランティア活動すらさせてもらえない」という時代に変わってしまいました。


街のゴミを拾うというボランティアはあるけれども、きっと高いレベルで必要なものは、ゴミを捨てなくなるようにする啓蒙活動や、ゴミが自然となくなる仕組みというものです。そういったものが出てきたときに、「ゴミを拾う」ボランティアは「失業」してしまいます。今日、街のゴミをなくすことと、同時に恒久的に街のゴミがなくなる仕組みを構築するということが求められているのです。

子供のスポーツ活動の支援をするにしても、そのスポーツを教える技術が必要であり、直接教えなくても、怪我のときの治療技術や子供の心のケアについて勉強し、考えることが大事です。支援に参加はしてくれていても、何もできない人は冷たい目で見られてしまいます。

プロボノという言葉がありますが、これは仕事におけるスキルを社会貢献にも使うという意味です。近年、なぜ、プロボノという言葉がクローズアップされたのかがわかってきました。勉強をしてスキルを上げる努力をしてこなかったもの、成長を求めないものは、更に効果的なボランティア活動に敗れて活動をやめるか、更に有効なボランティア活動で単に作業者として使われるかということになってしまいます。


定年したから「ちょっとボランティアでもやってみようか」とか、「災害があった場所でボランティアをやってみよう」と考えることは大事ですが、「自分にはこういう能力があるからそれを生かして、こういう貢献をしよう」というくらいの心構えで行かないと、逆に活動の足を引っ張るだけになり兼ねません。

会社でぱっとしないからとか、仕事がないから、というのでボランティアに流れてくるケースは実は少なくないと思うのですが、そのボランティアでさえも、もしかしたら受け入れてもらえない可能性があるのです。


自分が感じた違和感というのは、ボランティア活動が社会活動として効果的なものが求められてように変わってしまったということ。そして、必要な能力を持たないもの(持とうと努力しないもの)は、報酬なしのボランティア活動でさえも参加できなくなる可能性があるということです。

テーマ : ボランティア活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

ミャンマーと日本の時差

医療が整っていないミャンマーで、無償で日本人医師、吉岡秀人氏が医療活動を続けているというのをテレビで見ました。画面を見る限り、結構な年齢になられている方のようですが、精力的な活動には頭が下がる思いがしました。

テレビ番組では、彼のところに治療にやってくる患者に目が行きました。
病院には、できものができていたり、火傷で治療ができなかったりと、治療が受けられないことから様々な外傷や疾病の子供の患者が親に連れられてやってきています。現代の先進国の衛生状態や医療の進歩が、いかに我々の生活に貢献しているかというのがわかります。

日本という場に置き換えると、明治以前の日本では、テレビで見たあのミャンマーのような状態だったのでしょう。もちろん東南アジアという熱帯の地域と温帯の日本では、発生する病気やその進行に違いはあるのかもしれません。しかし、時代劇や時代小説ではまず出て来ない、別の世界が日本の中にあったのだと、テレビを見て考えさせられました。

そして、明治以前の日本のことが、現代の別の場所で起きていることについても、改めて認識させられました。


※ テレビ番組名も放送日時も忘れてしまいました。書きかけの記事をとりあえず形にしてアップしたので、実はずいぶん前のものかもしれません。

プロフィール

Author:板倉修一 〜 ITAKURA Shuichi
愛知県出身
滋賀県在住

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